ブラジルの農業誌、"GLOBO RURAL"1998年3月号で、カルロスさんとジャカランダ農場の特集が組まれておりましたが、ここでご紹介させて頂きます。
"エコロジスタ"の名にふさわしい初めての人物は、ノアの箱舟のノアかもしれない。大洪水で絶滅に瀕したあらゆる生物を救ったという意味において。601歳で亡くなるまでにノアは様々な問題を解決したが、20世紀の人間達は自分たちが作り出した混乱を解決するにはほど遠いところにいる。世紀末が近づき、地球を救うための大規模な解決策が必要となっている。
現代の「ノアの洪水」は人間自身の手によってもたらされたものであり、それはより一層大規模で危険なものである。それはもう目の前に迫っている。我々を襲うのは水ではなく(逆に不足してると言えるかもしれない)、汚染物質である。大地、河川、海洋、そして空気中には様々な毒物が満ちあふれている。
汚染はゆっくりと、だが確実に進んでおり、地球規模での有効な対策もないまま、次の世代をも巻き込んでいる。しかし、現代のノア達が時代の要請に応えるべく、地球上のあちこちに現れ始めている。
その一人がミナス州のカルロス・フェルナンデス・フランコである。背の高いやせた老人で、優しく、大変質素で善良な人物である。ミナス州の南、マシャード郡にあるジャカランダ農場で、彼は杖を使って歩き、大地やそこに住む生き物に優しく語りかける。彼は、旧ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの「地球は青かった」という言葉が好きだが、今地球上で様々な破壊が進み、その美しさが減少しつつあることを憂えている。彼は地球を守ろうとする試みがうまくいってはいないことを知っているが、あきらめてはいない。
「私に全てを解決する力がないとしても、私は私の仕事を通じて許される範囲内でできるだけのことをやっていきます」
と彼は言う。
この農場主は、彼の住む大地を心で理解しようと努力している。その為に彼は大地に語りかけ、対話を続ける。マンチケーラ山脈のジャカランダ農場という"エコロジーの箱舟"において、フランコは化学肥料も農薬も使わず、ブラジル発の有機コーヒー生産者となり、かつ初の有機コーヒー輸出者となった。彼の活動は様々なところで取り上げられている。
現在、ジャカランダ農場の販売先は只一件のみ、日本の福岡の"有限会社有機コーヒー"だけである。生産量が小さいので、今のところその他のお客は必要ではない。90ヘクタールの面積で年間約1800俵を収穫している。コーヒーの品質は最高級との折り紙を付けられており、多くの愛好者を持っている。
この土地の自然はコーヒー栽培には最適である。標高が高いので一日の気温の変化が激しく、また土壌は肥沃でおいしいコーヒー造りの最高の条件を備えている。
「コーヒーをおいしくするために、自然がやってくれる以外の出来るだけの仕事をするのです」
例えば、収穫の際には赤く熟している実の割合が出来るだけ高くなるようにし、また、コーヒーの実は収穫布の上に落として地面に触れないようにする。収穫したコーヒーは、発酵を防ぐためにその日のうちにセメントでできた天日乾燥場に運ばれる。コーヒー豆は日中、太陽に外皮ごとさらされ、何回も何回も反転される。外皮に含まれる幾多の酵素やアミノ酸がこの乾燥の工程中にコーヒーの実の中に吸収されて行き、良質な味へと変化していく。
フランコにとってもはや品質に関する問題はほとんどクリアーされたといって良い。ただ一つ問題なのは生産に伴う経費であるが、これもそれほど大きな問題ではない。1俵あたりの生産費は約150レアルである。
ジャカランダは植樹の歴史が古く、32年になる樹もある。昔植えたままなので樹間も広い。生産高はヘクタールあたり年20俵ぐらい。今後の目標をヘクタールあたり年間45俵においている。もう一つの目標はコストの低減である。フランコはこの目標を達成するために密植を計画し、コーヒー園の改造に取りかかっている。2ヘクタールほどの小面積によるテストの結果では、ヘクタールあたり8000本から10000本くらいが良さそうだと結論づけている。このくらいの栽培密度ならコーヒーの樹列間に雑草を生えさせることが出来る。
「雑草は私の友だちです。」
フランコは言う。
「私は、様々な動物、植物が多様に入り交じった状態が望ましいと思っています。そのような環境では様々な種類の昆虫が繁殖することが出来ます。クモは上にも下にも物を運びます。また、害虫を捕らえる他の昆虫もコーヒー園の中にいてくれます。雑草は益虫にすみかを提供してあげるだけでなく、刈られてそのまま有機堆肥の材料となります。」
栽培物の残り物、たとえばコーヒーの外皮なども有機肥料の大きな栄養源である。外皮は、農場内で調合される微生物が豊富に溶け込んだ溶液の助けを借りて、速やかに分解される。
「一塊りの肥えた土と動物の糞と少しの灰を混ぜ合わせ、その後水を加えるだけです。全て本当に簡単なのです。」
ここには高い生産性に対する盲目的な要求はない。有機コーヒー社と誠実な日本の消費者がバックアップしてくれており、ここで出来るコーヒーに対して適切な価格を払ってくれるからである。しかしそれだけではない。フランコは消費者に対して、直接つながっているのだという連帯感を持っている。地球の裏側から送られてくる、励ましと幸運を祈る沢山のメッセージを彼は大事にとっている。農場の歴史を含む彼の伝記が、有機コーヒー社によって昨年1月日本で発刊された。
日本へのコーヒー輸出は普通2ヶ月毎に行われている。フランコは次のような方法で出荷価格を計算する。新聞に発表される最優良コーヒー相場価格をベースに過去数週間の相場価格を集計し、それらの平均値を求め、それにプレミアムを付け加える。「時には40%ものプレミアムになることもあります。」と彼は話している。取引値は買い手と売り手の間で予め取り決められている最高値を超してはならないが、また、最低値も決められている。このような形で保護されながら、フランコはミナス州南部の多くのコーヒー栽培者を魅了し、エコロジーの旗手として、また有機栽培のパイオニアとして勇ましく全身を続けている。彼はブラジルの"新しいもう一つの農業"のシンボル的存在となっている。
精選種子、機械化、農薬と化学肥料の多使用など、地球上の何処でもやっている従来型の農業をジャカランダ農場ではかなり以前から批判してきた。それには様々な理由がある。巨大化した近代農業は文字通り、有限な地球の資源を食いつぶしつつある。石油はリンやカリウムを多く含む岩石とともに大変重要な資源である。これらは大変安価なために、エネルギー的な視点からすると異常なほどの浪費を繰り返している。こんなことではいつか石油は地上から姿を消してしまうであろう。さらに不必要なほどの機械による土壌の耕転は土壌浸食を進め、その結果肥沃な土地を年間何十億トンも失うことにある。また、砂漠化、塩基化もすごい勢いで進んでいる。化学肥料と農薬は水を汚染し、地球上全ての生命を脅かしている。すでに知られているがごとく、水は21世紀には石油よりも重要で価値ある資源となるであろう。
有機農法はこれらの問題に対する決定的な解決策となるわけではない。しかし、有機農業を通して、人々は様々な意見を聞き、地球を汚染しないことに何らかの形で貢献できるのではないか。有機農法は徐々に地球上の色々な国で広まりつつある。
フランコの歩んできた道は平坦な物ではない。あらゆる人間と同じく、厳しい道を通り越し、すでに70年がすぎた。私は自分の人生をまっすぐに歩んできた。彼にとって、それは十分に価値のあることである。キリスト教に対して堅い信仰を持つフランコは、人間を単なる抽象的な存在としてはとらえない。
「節を曲げず、頑固でいなければならないこともたくさんあります。しかし、人間愛、または連帯感無しには私たち人間は進歩しません。」
と彼は語る。彼は、自然と有機コーヒーの消費者と農場スタッフを慈悲深い目で見つめながら、いつもこの考えを心に留め、実践に移している。
「1グラムの肥沃な土には、10億にも達する微生物が存在しています。この生命が一瞬も休まず、日夜私たちのために働き続けてくれています。彼らが植物のための栄養を土の中に蓄えてくれるのです。農薬によって彼らを殺してしまってはいけません。
また、消費者を尊重すべきです。彼らは安全な農作物を受け取る権利があると思います。それに、農場で働くスタッフの命と健康を危険にさらしてはいけない。」
と彼は考えている。この倫理観に従い彼は断固として農薬を使用しない。
最初に彼が農薬の危険性を感じたのは1974年のことだった。彼は、娘婿に10頭のジール種の雌牛を農場内の牧草地で飼育してはどうかと言った。その若牛たちは赤と茶色の斑点を持った大変美しい牛だった。ある月夜の晩、その牛たちは牧草地の柵を越え、バナナの害虫消毒用に農薬を溶かしてあったタンボールの方へ出て行った。「7頭がタンボールの水を飲み、朝の光を見る前に死んでしまったのです。」フランコはこの警告を決して忘れることが出来なかった。その少し後、1978年には近くの農場で労働者が農薬事故を起こした。同じ年、サンパウロのアドルホ・ルッツ研究院に化学研究員として勤めていた次女テルマが、農薬使用に関する詳細なレポートをフランコに送り、注意を促した。このレポートを受け取った後、フランコは農場での農薬使用を断固やめる決心をした。
その後、息子で農業技師のカルロスが「お父さん、お父さんは美しいことが好きなのに、なぜ有機農業を試みようとはしないのですか?」という提案をしてきた。フランコの考えを変えるのに、沢山の説明は不用だった。空は直ちに有機農業研究協会(AAO)の会員になり、その協会に足を運ぶようになった。しばらくするうちに、彼は色々な考えを知り、また様々な技術情報を得ることが出来た。その一つの成果として、6年後には農場内での化学肥料の使用も完全に止めることが出来た。
ある意味では、彼は有機農法に再会したとも言える。彼の家族は140年もの間、ミナス州の南部でコーヒー生産を続けており、彼と彼の妻フランシスカ・エミリア・テイシェイラ・フランコ(最初にして唯一の彼の恋人)はその後継者だ。彼の父の時代、セーラ・ネグラ農園(現在のジャカランダ農園はその一部)では水、土壌を保全する考えのもとに有機農法が実践されていたことを彼は覚えている。彼の記憶によると「その当時いくつかの耕地では伐採後に火を入れず、農業を営んでいたことがありました。伐採された原始林は、幹の部分は燃料に回し、葉や枝、根の部分はそのまま地面に残し腐らせていました。これらは有機肥料となり、コーヒーが生育するのに大変役立っておりました。今日まで、50〜60年も経ちますがこれらの耕地の土壌は今でも健全で肥沃です。」堆肥や敷きわら、豆科の植物による緑肥なども当時行われていた。このような技術は農業学校や州立の農業関係機関でも指導されていたが、実際にこれらの技術を取り入れた農家は1%にも満たなかったようだ。有機農法をジャカランダ農場で再開することには大変な困難が伴った。作物は元気をなくし、しおれてしまい、土壌が回復するまでの数年間、生産量は大幅に落ち込んでしまった。
「私は土壌の回復に大変な注意を払いました。今は土壌がコーヒーの面倒を見てくれています。いつの日かコーヒーが私の財布の面倒を見てくれることを期待しています(笑)。」
収穫が何度地に落ちても、変化をもたらした勇者への報いは相応しいものだった。フランコ氏は打ちのめされるようなことはなかった。何度も困難な局面に立ち向かい、意志を曲げることはなかったのである。
模範的なエンジニアのカルロス・フェルナンデス・フランコ氏の場合、サンパウロ大学工学部で電気機械工学の学位を得て直ぐに、長兄のクロヴィス氏と共に事業を始めた。彼らは常に高い技術的競争力を保ち、橋梁の建設方法を研究して特許も取得した。
長年の活動において、会社はサンパウロ州で160の橋を建設(その期間では最大数)。また、学校やビルの建設にも携わった。カルロス・F・フランコ氏の事業契約は、パラナ州、ロンドリーナ州、ミナス・ジェライス州にも及んだ。しかしながら、会社の売却は避けられないところにあった。フランコ氏はこう説明する。
「兄と共に結論を出しました。生き方を変えることにしました。しかし、築いて行くこと、建設して行くことはできます。我々の企業は、公共事業を請け負う企業でした。この分野では全てが腐敗し、不誠実でした。賄賂や不正無しに、真剣に仕事に向き合うことはとても困難でした。誠実さのないところで、耐えることはできなかったのです。」
こうして2人は、顧問に退いた。
もう1つの大きな転機は、1981年に訪れた。フランコ氏は、サンパウロ州の老人や病院、貧しい子供向けの託児所への協力を続けるAEB(福音共済連盟)の理事で、予期せず会長に選出された。当時AEBは困難な時期にあり、フランコ氏はその再建の任務を負い、自身の半分の時間を連盟に捧げた。しかし生計は、農業で立てなくてはならなかった(エンジニアとしての仕事はまだ残っていたが、非営利団体のボランティアとして)。大地に戻ることに、それほど困難は伴わなかった。
「人は大地から離れるが、大地は人から離れない。」
フランコ氏は事実、セーハネグラ農場から離れることは、その後2度となかった。父親の死後、1964年から1971年の間、家族所有地の管理を、兄弟から費用を徴収することなく請け負った。遺産分配が行なわれた後、建設会社の売却金も含めて、フランコ氏は出来る限りの敷地を購入した。
「かつてのセーハネグラ農場の約30%に及ぶその土地に、ジャカランダ農場と名を付けました。」
最終的にこの兄弟は、長年に及んだ事業の償いを選んだ。(補足)
フランコ氏はその時、多くとも30米ドルしか手元になかった。それで、長く垂れる飾りを持つ、美しい灰色のシルクハットを買った。
「シルクハットにより、充足感を抱き続けることができました。これから先も、それが形を失うまで感謝の気持ちを持ち続けます。」
(補足)カルロスさん兄弟が腐敗した世界で得たお金を浄財として、御自身にとっても社会的にもより意義のあるものとして、有機農業を選んだというニュアンスで書かれているようです。